Picoti-Picota

地面に、散らばるエサ、つつけ、つつけ、ツンツンと

私を嫌いなあの人とあの人を嫌いな私

少し前にテレビで誰かが言ってた。

「嫌いは両思いになる」

たしかに。

 

私は幸いにも、おおむね人に好かれる人生を送れている。

自ら声をかけていくタイプではないけれど、見た感じも善良だし(我ながら)、人を不快にさせる言動はあまりしないし、付き合いが良い。

異性にチヤホヤされるというモテ度は低いが、集団の中で愛される側の人間なのだな、と大人になって気が付いた。

 

でも昔から、特定少数の相手からは猛烈に嫌われる。

相手がどれぐらい自分を嫌っているかは確かめたことがないのでよくわからないが、すごく嫌われてるな、と感じる。

同時に、私も相手を嫌いだったりするので、そうなればバトルはしたくないのでただただ離れる。

そうしてお互いが袖を触れ合わせずにやり過ごしてきた。

 

今思っても、私が嫌いになったから嫌われたのか、嫌われているから嫌いになったのか定かではない。

どことなく「合わない」「苦手」という印象が拭い切れないまま、何かのきっかけで足を引っ掛けあい、こじらせてしまったかな。

純粋に相性が悪い相手とうまくやれないタチなんだろう。

 

今も、およそ一名が私を嫌っている。私も彼女が嫌いだ。

今までなら、合わないなら距離を取り、互いに干渉しないでいれば良いだけのことだった。

今回は違った。相手が積極的にこちらへ絡んできていた。そもそも私は相手にあまり好かれてないなと感付いていたし、だから関わらずにいようとしていたのに、あるきっかけで絡まれ始めた。

それも、悪意のある絡まれ方なら対抗措置も取れるのに、上っ面は善意と親しみを持って近づいてくるからタチが悪い。めんどくさい。ほっといてほしい。だから嫌いになった。

 

通っているスポーツジムでのいざこざなのだけど、理由は単純。

彼女がお気に入りのトレーナーに、私がパーソナルトレーニングを担当してもらっているから。

たったそれだけ。私とトレーナーの間に、人が疑う何かがあるわけではない。ただ、担当してもらっているだけ。でもそれが気に入らないんだとか。

よくある話といえばそうなんだろうね。

ジム内を常に我が物顔でうろついて、惰性で運動して、あとは人としゃべりに来ているタイプの人だというのは、私が通い始めて間もなくわかった。

顔は広そうだけどあまり関わるのはよろしくないと思っていたので、時々目が合えば挨拶をする程度のまま何年かやりすごしてきたんだけど。

元々好かれてなさそうだな、と感じたのは、それもそのトレーナーの存在が理由だった(らしい)。

 

彼女が私に絡んでくる少し前から、パーソナルトレーニング中にずいぶん厳しい視線で観察されてるなと思っていた。

そしてある日突然話しかけてきて、トレーナーの悪口を言い出した。

「あいつは下手だから、他のトレーナーにした方がいい」

だいたい同じ意味のことをレパートリー豊富に、しばらくは私がジムへ現れる度にプレゼンテーションをしてきた。

私は、基本的に人当たりが良いので、なんか変だなと思いつつも笑顔で対応素直に話を聞いていた。

ああ、トレーナーを変えさせたいのか、という意図はすぐにわかった。その理由は、「まさかね」と思わなくもなかったけれど、彼女の態度があまりにも親切ごかしだったので、本当にトレーナーは無能なのか?私のために言ってくれてるのか?と危うく信じるところまで持っていかれた。

 

この時はまだ、「嫌い」ではなかったと思う。お互いに。

私がはいはいと素直に話を聞いているし、こいつもうすぐトレーナー変えるな、と相手が思い込むぐらいまでの反応はしていたと思う。

これは八方美人な自分の責任でもあるけれど、そもそもトレーナーを変えるつもりはないし、ジムに巣食うヌシみたいな人ともめるのも面倒で、相手が喜ぶ反応をしてしまっていた。

なにしろ、いつも一人で来てもくもくと運動をして(何人かは言葉を交わす人もいるが)一人で帰るジムタイムにずかずか入り込んで日々説教だ、心も疲れる。

 

私が「もう疲れた、トレーナー変えてもいいかも」と本気で思い始めたが寸止めできたのは、当のトレーナーのおかげだった。

私の異変に気づいて、「誰かに何か言われていないか」と問いただしてくれた。

実はね、と話すとトレーナーはうんざりした顔で、これが初めてではないと話してくれた。だから、彼女がトレーナーに執心していること、そのトレーナーが担当する女性会員を発見すると親切な顔で近づいてトレーナーの悪口をいって変えさせる、という企みをすることを知った。

正直、ばっかじゃねえの、と思った。

彼女は自分の行動により、当のトレーナーに嫌われてしまっているのだから。

通常、トレーナー側にとっては私も彼女も会員としては同じだ。だから、きっと言ってはいけないはずなんだけど、よほど腹にすえかねてたのか、「もううんざり」「やめさせたい」と言うほどだったので、まあ大変だったんだろうね。

 

その後トレーナーはその人に厳重注意をしたらしく、ぴたっと彼女からのつきまといはやんだ。

しかしその時から私は嫌われた。

話しかけてはこないが、しばらくは行動を監視されていた。トレーナーが絶対に目が届かないところでは何度か話しかけられて、懲りずにプレゼンテーションをされた。

でも、嫌われているのはよくわかる。

その時のパーソナルトレーニングは期間限定でやっていたので、やがて終了した。彼女はある時、私から終了の確認をとった。

それから、ぱったりと声をかけてこない。前なら、ジムエリアの端から端でも追いかけてきたのに、今は目の前ですれ違っても挨拶さえしてこない。

トレーニングは終わったから、邪魔をする必要がなくなった。

なら、嫌いな女に声をかける必要は皆無。

そういうことなんだろうね。わかります。

 

だけど、今もまだねちっこい監視の目は感じてる。

トレーナーと二人でしゃべっているとき、だいたい私の視界に届く範囲にいる。

 

トレーナーとは、別のメニューでトレーニングを再開する予定なのだけど、彼女がそれを知ったらまたどうなるのか、うんざりとおもしろがるのと半々。

 

単純に、本当にトレーナーを変えてしまえばいいのかもしれない。

私もいまだに、少なからず彼女の存在をストレスにしているし。

でも嫌いな人を喜ばせる道理はないので、トレーナーを変えるつもりはない。トレーナー自身に問題があって変えたいと思えばまた別だけど。

 

トレーナーに打ち明けた時「こうなるかもと思っていた、最初に言わなくてすみません」と言われたのだけが、トレーナーに対してオイオイ、と思っている。

そもそも、私は以前からそのトレーナーにアドバイスをもらったりしていたけれど、本当は別の専任スタッフに頼もうかと思っていたトレーニングだったから。トレーナー自ら、自分でも担当できるよと言ってきたので、まあ勝手知ったる相手のほうがやりやすいか、と頼むことにした。

妨害が予測されるのなら、自ら営業をかけるべきではないのだ。

そりゃあまあ、自分の収入につながるから顧客がほしいのはわかるんだけども。微々たる収入よりも、ゴタゴタが起きてその処理をしたり、万一私が心の弱い人間で「こんなジムやだ」とやめたらそのほうが損益につながると思うんだけどなあ。

 

結論として、スポーツジムで人と深く関わるのはやめるべき、ですね。

あんなみっともないババアにはなりたくない。

できなくなる人生と、できるようになる人生

私は今36歳で、もうアラフォーといってしかるべき年齢だ。

ただ、幸いなことに環境や仕事や元々の体質のおかげで、実年齢よりはだいぶ若くみえる。

 

まあ「若く見える」と言い張る時点で若くないんですがね。

 

精神年齢もここ10年まるで成長をみせないので、自分が30代も後半なのだということがいまいち納得がいかない。

私の了解を得ぬまま、勝手に年を取るんじゃない、と言いたい。

誰に言いたいんだろう。

 

そもそも小学生ぐらいから「大人になりたくない」と思っていたので、そういう人間はあまり老け込まないのじゃないかなと思う。

とはいえ肉体的な経年劣化は好むと好まざるとにかかわらず出てきてしまう。

それを食い止めるためとか、ちょっと体重増えてきちゃったなとか、その他色々な理由もあって数年前からスポーツジムに通いだした。

 

以前、別の土地に住んでいた頃にも通っていたのだけど、こちらはあまり長続きしないで半年ぐらいでやめてしまったかな。

ぐっさんによく似たスタッフだけが、いつも気さくに声をかけてくれていたんだけど、その他誰ともなじまないまま飽きた。

今のジムは、色々な条件がうまく合致して、やめるどころか年々ハードモードになっている。

 

おかげで、子供の頃からずっと感じていた運動不足、運動神経ゼロ感がなくなって、人生の中で一番運動能力が高い状態なのが今だ。

持久力、瞬発力などの基礎体力がアップしたことはもちろんだし、跳べる・走れる・泳げる・重いものが持てる、と以前できなかったことができるようになっている。

脳内の快楽物質がとまらない。

 

どこかで読んだのだけど、同じ年齢で老けてる人と若々しい人、その差がでるひとつの原因。

「若い頃よりできなくなったこと」が多いか、

「若い頃よりできるようになったこと」が多いか、

にあるとか、ないとか。

 

私は今、できなくなったことよりできるようになったことの方が圧倒的に多い。

できなくなったのは、12時間ぶっつづけでお酒を飲むとか、徹夜で遊ぶとか、それぐらいだしそれはもうやらないでよい。

 

大人になりたくなかった人間は、子供の頃できなかったことを実現することで、今に納得しているんだろう。

それは大人の力、お金でどうにかできるものでは満たしきれないと思う。

子どもの頃と同じような努力で得てこそ、「若い頃よりできるようになった」といえる。

 

私は3度ほど死んでもおかしくない経験があり、それは普段の生活になんの影響も与えていないけど、私の人生観とかには大きな影響を与えていると思う。

私は、長生きしたいし死にたくないし大事な人ほどその死を見届けたい。

同時に、ほぼ毎日のようにいつ死ぬかわからないしな、という前提でものごとを決めたりしている。

「いつか」「そのうち」という言葉があまり好きじゃない。

やりたいことがあれば、すぐにでもやりたい。

やれないなら、一刻も早くやれる状態にしたい。

慌てるなと言われても無理だ、だって来年も生きてる保証がどこにある?

 

なにかができる、というのは、結局そのなにかを「やる」ということだ。

ヒマを見つけては足繁くジムに通い、それなりに痩せて筋肉がつきなぜかブラのカップはアップし、目が大きくなり肌はつやつやして力持ちになったし足も速くなったし挙句の果てにカナヅチの日本代表がクロールなら結構泳げるようにもなった。

周囲の人が言う。

「よくそんなにできるね」

できるのはなぜか、というとよくわからない。

楽しいからとしか言えないし、楽しいは向こうからやってくるものじゃなくて自分で楽しくしていくものだから。

やりたいからやるし、やるなら楽しくしたいし、ジム通いは出来てるんじゃなくやってるんだし。

 

「何を目指しているの?」とも言われる。

当たり前のことながら、外見が今よりきれいになるためにやっている。

誰のためでもなく、自分が自分で鏡をみてうんざりしないで済むように。

お、今日もいいね!と思えるように。そのいいねが続くように。

ナルシストと笑われるかもしれないけど、造形美にこだわるのは職業病みたいなものだし、一生目にして付き合わないといけない自分の造形が、不細工であることはやっぱり不愉快だ。

逆に、不細工だなあと思っていた部分が是正されていくのは気分が良い。

 

さらには、最終的に寝たきり老人にならないためにしているからだろうか。

目標は遠いのだ。ちょっとスマートになったからってやめられない。

これぐらいの年齢にもなると、「一生結婚できない人生」というのも現実味のある選択肢(それも否応なく選ばざるをえない)となってくるので、ひとりで老後を過ごさないとならなくなったなら、やはり最後にものを言うのは体力。

動けて歩けてものが持てることは、お金があることと同じかそれ以上に老後に必要なスキルだ。

生きがいだとかたいそうなものじゃなく、普通に過不足なく生活を送りたい。

だから私は体力のあるうちに体力をつける。

できなかったことができるようになった!といえるうちにできることを増やす。

そのうち、落ち着いたら、ゆとりができたら、なんていったら体力つくまえに死んでしまう。

 

体は資本。死ぬ前にできることを増やさないとね。

正しい恋の決着点について

私はやさしい男によくフラれる。

 

今より何年か前にも、私は好きな人がいた。

その人に出会ったのはもう8年ぐらいは前なのかな。

合コンで知り合って、なんだかいいなあと思った。

だけど連絡先を交換したぐらいで、その後すぐに会うことはなかった。

1年か2年かして、一度連絡がきて飲みに行った。

そのさらに1年か2年して、ひょんなことで連絡が復活して、また飲みに行った。

その時に初めて2人で会ったけれど、いいなあって改めて思った。

 

その間には、2つほど恋愛を経ていたけど、どこかでずっとひっかかっていた人だった。

少しがんばってみようかと、私にしては積極的に誘ったりして、結構頻繁に会うこと半年。夏にはドライブまでした。

互いに30代も半ばというのに、だからこそなのか、男女関係は発展せず。

相手が明らかに脈なしなら諦めもつくのだけど、妙に好意的でもあったりで判断がつかない。「俺は受け身だから」と何度も言われた。

正直、なんだそりゃ、と思ったりもした。

もやもやしながら、いい加減答えを出さないとなと考えて「この日に」と決めて、誘った。

だけど、会う前日に「友だちも呼びたい」と言われて、私の心は一気に萎えた。

「お好きにどうぞ」

その日を最後に、私は彼を恋愛対象として見ることをやめた。

 

それでも、彼のことがどうでもいいとなったわけじゃなくて、たまに無性に会いたくなる。私たちの間には何もないけれど、時々頭をなでてもらったり手をつないでくれる、それがついつい恋しくなる。

それで連絡をして、ただ酒を飲み、他愛のない話をして、夜中に街を歩き回り、少し親密な距離感を味わって、さようならする。

また1年くらい会わない。

 

そしてそろそろまたあの人とお酒を飲みたいな、と思ったのと同時に、私はこんな不毛なことをいつまで続けるんだ、と今年になっていよいよ反省した。

本当に好きな人はもう別にできてしまったけど、私はどこかで彼の存在を滑り止めにしている。

うら寂しい時、逃げ道にしている。

だからダメなんだ。

 

本来なら、もう連絡をしないで会わなければいいのだけど、そこは私も弱いので「これが最後」ともう一度会う手はずを整えた。

 

いつも通り会って、下品でろくでもない話をして、酒を飲み、酔っ払って街を歩き、ベンチで休み、コンビニに寄り、彼の車についていった。

何かを企んでいたわけじゃないけど、もう少しだけ一緒にいたいなと思って、今までで一番甘えてしまった。

 

好きな人のことを、どうしようもなく好きなんだと気づいたと同時に、それは叶うものじゃないと思い知った後だったし、それ以外にも気が滅入ることが多くて、少し肩を借りたかった。

結局借りたのは肩だけにとどまらず、今まで決して超えなかった一線を超えてしまった。

 

なんでそんなことを言ったのか、私もわからない。

言わなかったら、友人同士が一晩火遊びをしてみただけ、という形でお互いに「あはは、なんかごめんね」で済んだのに。

 

「ずっと好きだったんだよ」

 

今思い出しても自分をぶん殴りたくなる。

言った瞬間、まずい、言い方間違えた、と思った。

「今は別にそうでもないんだけど」と付け加えるのを忘れた。

とはいえ、行為の最中にそんな補足説明はそれこそ情緒がない。

私は情緒を大事にすることにした。

 

ほんのりと気まずい気持ちのまま、別れた。

私はこれ以上連絡する気がなくて、このままさよならでもいいかな、と思った。

なんというか、最後に味見できたしまあいいか、ぐらいの気持ちだった。

告白しちゃった!みたいな焦りとか不安とか高揚はなく、そのあたりはやっぱりもう、私にとって彼は終わってしまった恋なのだなあと感慨深いだけだった。

 

でもその夜に、彼からLINEがきた。「今から会えない?」

え、やばい、どうしよう。

とりあえず、会った。

そしたら、フラれた。

 

「好きって言ってもらえて、本当に嬉しかった。でも、今、他に気になる子がいてさ・・・ごめん」

 

1日かけて、私とその子とどちらを選ぶか、悩んでくれたらしい。

その子とやらがいなければ、付き合ってくれていたんだろうか。

昨晩の甘えと告白をあと2年ぐらい早くできてれば、今頃婚姻届でも出してたのだろうか。

人生は数えきれないほどの分かれ道を選択して歩いて行く。

そしてその分かれ道が正解か不正階下を確認することは誰にもできない。

 

全然へっちゃらだよ、という顔をするのも違う気がするし、悲しむにもショックが少なくて、えーと、うん。

まあそのへんは、大人ですから、と適当ににごして了承した。

そして、今回で会うのを最後にしようと思ってたとも伝えた。

だから安心してね、もう友達でいる必要すらないんだよ。

 

彼が会って話したいと言ってきたとき、私は何かを期待したんだろうか。

「付き合おう」と言われたら、付き合ったのかな。よくわからない。

半々、というのが正直なところだったし、フラれて「やっぱりな」と思うと同時に少しホッとした。

そして、苛立ちもした。

すぐに答えを出そうとするのは、やさしい男性によくあることだ。

「きちんと答えを出すことが誠意」とか思ってる男だ。

それは実のところ、「できるだけ相手を気遣って傷つけないようにしつつ、自分の厄介ごとを手早く片付けて楽になりたい」だけなんだよ、そこまで見えてるよ。

 

途中まで送ってくれようとしたのを辞退して、じゃ、さよなら。と手を振って、歩いた。

しばらく後ろにいたみたいだけど、彼がいつまでも私を眺めていたのか、すぐに踵を返したのかは知らない。

だけど、私はこういう時は振り返らない。

 

安心してね、私はつよいの。

男にフラれたときは、ぜったいにすがらないって決めてるの。

そうやって、恋には決着をつけるの。

そういうアピールをする。 

 

最後にやさしい人でいてくれてありがとう。

ちゃんと会って話したかった、とつまらない綺麗事を言ってくれたおかげで、私はあなたに未練なく幻滅することができました。

未練なく、堂々とかっこよく立ち去ることができました。

 

ペーパーナイフが使えない女

封筒を開けるのがへただ。

いつも、とっさにハサミが見つけられなくて、ノリではりついたところを指で摘んではがす。

うまくはがれずに、紙の上の層だけが途中までやぶける。

わずかに開いた穴があればそこに指を突っ込んで、ぐいぐいと破いていく。

破れ目は当然ぐちゃぐちゃになる。

時には調子よくスーッと敗れるのだが、そういう時は高確率で紙の鋭利さに皮膚が負けて、怪我をする。

幸運にもハサミをみつけた場合はスムーズかつ綺麗に切り開くことができるが、きちんと光に透かして中の紙の位置を確認しないと、いらぬものまで一緒に切り取る羽目になる。

中には封筒の天地めいっぱいに紙が詰め込まれている場合もある。

 

知り合いの女性で、郵便物を美しく開封する人がいる。

郵便物を手にすると、流れるような動作でペーパーナイフを引き出しから取り出し、机の上にしかるべき角度で封筒を置き、ノリと封筒との間にわずかに覗く隙間にナイフを差し込み、音も立てずに開封するのだ。

なんと、文化的で美しく、封筒への敬意ある所作だろうか。

自分の教養を微塵も感じられない普段の行いが恥ずかしいと思った。

 

ある日、鈍く銀色に光るペーパーナイフを文房具売場で見つけた。

悩むことなくそれを買った。

帰宅して、ペーパーナイフをパッケージから取り出し(もちろんパッケージは強引にやぶいて、台紙とプラを止めたステープラーの針もどこかに跳ねてしまった。数日後に裸足で踏みつけることになる)、ペンスタンドの新たな仲間に加える。

フフ、と笑った。

開封するべき郵便物はなかったが、ペンスタンドからもう一度取り出して手にした。

紙を切り開くためだけにある、人を殺せない刃がまろやかでやさしい。

これを持っているだけで、かの女性のように教養がありスマートであり仕事ができる人間に慣れた気がした。

 

はやく、なにか郵便物が届かないかしら。

 

人間、定まった住所を持ち、まともに税金や公共料金を払い、それなりに働いていれば、日々なんらかの郵便物は届く。

間もなく私の元へも郵便物が届いた。クレジットカードの利用明細兼請求書だ。

たいして喜ばしいものではないが、さあキミはこのペーパーナイフで美しく切り裂かれる最初の犠牲者だ。

ナイフの刃をべろりとなめ(るような気持ちになり)、封筒を裏返して机に置いた。

刃を差し込むべき封筒の封の隙間をさがす。あった。少し狭いが、まあ入るだろう。

先端を水平に差し込み、ぐ、と力を込めてナナメ左上に向かってナイフをスライドさせた。

 

ぐしゃ。

 

思った動きにはならず、ナイフは早々に封筒の折れ目に引っかかり、醜いシワを寄せながら紙は抵抗をした。

む、ともう一度力を入れなおしてスライドさせるが、ナイフはその本領を発揮させることなくがたがたと左右にぶれながら、小汚く封を切り開いていった。

 

最終的に、「指よりは、まあマシ?」ぐらいの仕上がりで、クレジットカードの利用明細兼請求書は姿をあらわした。

まだ刃が慣れてないからか、自分のやりかたがまずいのか。

まあ、このペーパーナイフも私も、開封に関してはちょっとした新人だ。これから仕事をちゃんと覚えていこうな。

そんな寛大な気持ちで、私はペーパーナイフをペンスタンドに戻した。

 

以後、ペーパーナイフ文字通りペーパードライバーさながらナイフとしての成長を見せないまま、ペンスタンドで鈍く輝いている。

そして私は今日も、指で雑に郵便物を開封し、その度に「あ」といってペンスタンドにある新人君を一瞥するのだ。

 

いつまでも封筒は綺麗に開かない。

ピコティ・ピコタの使い方

Picoti Picotaは「ピコティ・ピコタ」と読むらしい。

ブログのネーミングを考えている時に、ニワトリにまつわる単語がないだろうかと探していて見つけた。フランス語のようだ。

トリがエサをつつく様子の擬音語のようなもの、じゃないかと思います。

 

何かが書きたくて急にはてブロを始めてしまったものの、では果たしてどんなコンセプトで書くべきなのか、ふわっとしてて定まらない。

 

ピコティ・ピコタもどういう意味なのかいつ使えばいいのかよくわからない。

まあちょうどいいかな、と思って命名してみた次第です。

 

私はSNSを使い分けている。

Facebookは、自分の写真も載せない、普段自分が何をしているかも見せない、でも時々食べ物の写真や通勤途中で見かけた動物なんかを載せて「まあ、一応生きてますよ」という感じだ。

そこに私の心や脳みそが何を思い、感じているかは見せない。

仲良し度の微妙な不特定小数の「知り合い」に見せるべき私、というのを探してつまみ出せば、その程度しか出てこないからです。

 

Twitterは、幾通りかの使い方をしてきたけれど、結局のところごく少数の、古くから私を知っていて、私のオンラインとオフラインの入り混じった人間性をある程度わかった人にのみ、ごく個人的なことをつぶやいている。

ここは少し居心地がいい。

 

あとは、やってない。やってたけどすぐ飽きた。長くやっていたけど潮時を感じてやめた。

特にインスタグラムは、写真を掲載するためのツール、というのが全然なじめなかった。

 

結局私はただずらずらとテキストを打つことが好きで、そこにはくだらないことも、隣で聞いていたら気が滅入るようなことも、人間性を疑われるような愚かなことも、俗っぽいことも、愛についても、重いの軽いの合わせて書きたい。

 

いつぞや数年間続けていたブログはそこそこうまくいっていたと思う。

時々起こるずっしりとした重い気分もそこに吐き出したし、恋人できちゃった♡みたいな浮かれ話も、別れた報告も、体のことも仕事のことも、深く考えずに書けた。

だけど、その当時の恋人と別れたせいで、彼との出来事をつづった少なくない数の記事に嫌気がさして、削除してしまった。

別れたことに後悔はなかったが、ブログに嫌悪感を感じたことはあいつのせいだ、とむかついている。

 

ブログって不思議なものだね。

これというコンセプトやテーマ、あるいはアフィリエイトで稼ぐぞ、みたいな目標があればまだしも、金にもならないただ自分の思考を書くだけの人も、いまだに少なく無いと思う。

それこそチラシの裏に書いとけよ、というもの、知り合いには知られたくないけど誰かに聞いてほしいこと、その行為に意味を見出せない文字打ち。

私はなぜだかそれが好きで、しばらくやめていてもまたこうして戻ってきてしまう。

 

声にならなかった、自分の足元に落ちているたくさんの瑣末な思いを、ひとつひとつ拾い集める。

10本の指はキーボードの上に踊り、それらをただ漫然と、画面に叩きだしていく。

ピコティ・ピコタ、と音を立てて。