Picoti-Picota

地面に、散らばるエサ、つつけ、つつけ、ツンツンと

隣におけるもの

私の言葉ではないのだけど、先日Twitterで「結婚がしたいのか恋愛がしたいのか、ではなく大丈夫になりたかった」

といった内容のツイートを見かけた。

人の言葉がストンと落ちる瞬間はとても気持ちがよく、ああよくぞその言葉を見つけてくださいました、と思った。

 

「だから私は大丈夫」といえる基盤がほしいのはきっと誰でも同じで、それが人であれ物事であれ思想であれ、自分という存在の隣にトンと並べておいて寄りかかれるもの。

私にはそれがないのだな、とわかった。

 

人が、その「大丈夫になれるもの」の実体が見えず、何かが足りないことを自覚しているとき、一番近い感情が「さみしい」とか「不安」なんだろう。

そしてさみしいや不安を埋めるのは、多くの場合人であって、それを手に入れるには子どもなら母親の胸にでも飛び込んで指をしゃぶって眠ればいいけれど、大人はなかなかむずかしい。

 

だから、隣に人を置きたいと思った時には、とりあえず恋愛とか結婚とかいう目印が必要な気がしてくる。

 

明確にさみしさを感じたわけじゃないんだけど、人生で一度ぐらいは結婚というものを考えてみるのもいいのかもしれない、と考えた。

それで、手っ取り早く結婚相談所のようなところに駆け込んで、登録した。

半年ほどお見合いをがまんしてやってみたけれど、向いてないや、という結論にいたった。

 

相手の男性がどうだとかあれこれ言うのも野暮ではあるが、明らかにみんな高望みをしているんだ、と気づいた。もちろん自分も含めて。

金か顔か年齢か、望むところは人それぞれだろうけど、「自分の相手はこんなもんじゃない」という意識じゃ、何もうまくはいかないな。

飛んでくるボールは無視、自分の持つボールは貴重品と思っていつまでも大事に撫でているだけ。

そんな感じのお見合いばかりだった。

 

うすうす感じていたけど、どうも自分は「結婚」がしたいのではないらしい。

そして、全てではないにせよこれまで会って話した人数の統計的にみて、クズが多い。

あと5歳10歳、私が若ければ少し違う世界が見えたかもしれないが、30代も後半に乗り出した私に結婚相談所が持ってくるのは40歳オーバーの独身をこじらせた精神的不細工ばかりだった。

 

もちろんシステムとして能動的に相手を探しコンタクトを取ることはできたけれど、常識的に対応するのがばかばかしくなるほど、礼儀を踏みにじられた。

とある地方の県内にしぼった限りではあるけど、ろくなやつがいない。

・・・と、相手を責めても仕方がないので、私が結婚相手を探す男性として、私を見た時に何を感じるのかを考えてみた。

 

ああ、わかりました。

悪いのはあなたたちではない。

35歳を超えて婚活にいそしみ、まだ子どもが産める今のうちに!と血眼になって結婚相手をあさっている私が、「お呼びでない」と思われているのだ。

そういう年齢なのだ、私は。

仮に「ちがいますよ!」と言っても無駄だし、言えるすべはないし。

そう考えた時、あほらしい、やめやめ。と思った。

 

では私はなにを欲していたんだろうか。

結婚の先になにを見出したかったんだろうか。

やっぱり恋愛でいい、と思ってるんだろうか。

 

私が欲しかったのは、子どもではなく将来の安定でもなく経済力でもなく、ただ「この人がいるから大丈夫」と思える相手だった。

それは少しの妥協や責任という重りをポケットにいれて、地に足をつけて隣に立ってくれるような人だった。

冷めたら燃えカスになって風で吹き飛ぶ恋人ではない。

 

だけどそんな存在って、探して見つかるものじゃないよね。

もっとも難しい存在だ。

 

そういう存在を考えたときにふと頭に浮かぶ人がいる。

ただ人としてそばにいるだけでいつも救われた人だった。

もし私がもう少し早く生まれていて、同等の立場でものごとを考えあえたなら、きっとすごくいいパートナーになれていただろうなという人。

だけどその人と私は少し年が離れすぎていて、その人は私を宝物のようにかわいがって、言葉を尊重し、時に賞賛しうなずいてくれるけれど、同じステージにはひっぱってもらえなかった。

一度だけ、その人が私に心を打ち明けた時があった。

どれほど私の存在が大きいのか、いなくなってさみしいのか。

でも私は怖くて、そうじゃないんだよ、と思って、笑ってはぐらかしちゃったんだね。

はぐらかさずに、きちんと伝えたらよかった。

守られたり愛されたりではなくて、私はあなたと同じところで戦いたいんだと。

私のはぐらかしを、その人は違う意味に取って、大人として距離をとった。

 

人生はまちがいばかりだ。道をまちがえるのが人生なのか。

右を見ても左を見ても、まだまだ大丈夫にはなれない。

ありがちなSNS的症候群

Facebookにある種の違和感とか拒否感とか気持ち悪さを感じる人は決して少なくないだろうし、私もそのひとりだ。

 

いわゆるSNSではmixiから始まり、TwitterFacebookとやってきているけど、Facebookの怖いところは気持ち悪いしやりたくないし見たくないんだけどやめると取り返しが付かないような気がしてやめられないところかなと思っている。

 

その前にSNSの始まり物語など。

mixiは、いわゆる1期生の段階で始めたので、当初の「村っぽさ」を愛してハマった。

そもそも紹介されたのはネットで知り合った会ったこともない人だったし、キャラを作っているわけではなかったけど、それ以前にはチャットやホームページを介して見知らぬ人とやりとりをするノリで育ってきた「ネットの私」として日記を書いたり人と交流ができた。

そこに少しずつ変化が生じてきたのは、mixiが普及し、これまでネットの社会に縁の薄かったリアルの知り合いが流れこんできた頃だろうか。(今では信じられない話ですが、スマホもない頃でしたから、インターネットをつないだことがない、2ちゃんねるを見たらウィルスに感染すると信じてる、といった友人は少なくなかった)

メールアドレスで探されたり、あるいは普通にリアルで「mixiやってる?」と聞かれだしたり。

お互いのことをよく知らないネット友人たちと、適度な距離感と暗黙の了解の上でしっとりと和やかにコメントしあっていた日記のコメント欄に突如として、

 

「おつかれ〜〜〜!今日は楽しかったねえ★また一緒にのみいこ」

「えー!2人で飲んだの?今度自分もさそって!」

 

などとヒップでホップなノリの友人らが「俺らリア友なんで」みたいな距離感無視のコメントを差し込んできた。

 

あー、うん、そうね・・・みたいな。

例えば、「友人と飲みにいった」という話題を日記に書いても、私はそれを「誰と行ったか」など人に伝えたくないし知られたくない。

あるいは、「ここで書いてないことを、私は知ってるもんね★」みたいな、ヒミツを共有してるアピールとか。

さらには、マイミク数をひそかに競われたりだとか。

また、ネットの疑似恋愛に引っかかってる女友達の頬をはたいて目を覚まさせるだとか。

 

そんなこんなで、使い方が変わってきて、リアルに知られたくないちょっとした本音とか、心の澱みたいな闇のある話もしづらくなったりで、息苦しくなり、つまらなくなり、やめた。

あと、元々知らない人だけど、mixi初期の「友達の友達は友達」を悪い意味で引きずっている古参もいて、私のリアル友達と知るや全員にコンタクトを取り、なぜかマイミクになっているという変な人もいた。常にやりとりを監視されてるみたいで不愉快でしたな。

 

ただしmixiでは多くの良き出会いがあり、未だに続いている友人関係もある。

本来なら出会わなかっただろう人たちとの出会いを提供してくれたことは、ずっと感謝すると思う。

 

Twitterは、一度アカウントを削除したけれど、使い方はほぼ変わらない。

これは匿名としての私のノリでやっている。知り合いもいるけどそういうのをわかっている人だけと。

アルファツイッタラーはやっぱり面白いので、結構フォローしてるけど、アルファ同士が「俺ら仲良しなんで」感のあるリプ飛ばし合ってるのを見るのは、あーはいはい天上人天上人、と思ったりはしますけど。

 

そしてFacebookも、なんとなく時代の流れで始めてみたものの、今やタイムラインを見ると具合が悪くなってくる。

私は自分が非リアとは思っていない。

仕事はちゃんとしてるし、友人もいるし趣味もあるしやりたいこともあるし人生で時間が足りないと思っている。結構一生懸命人生を行きている。

あまり異性にモテないのは残念だけど、ひっそりと恋愛に片足は突っ込んで生きてる。幸せとは言いがたいとしてもな。

けど、オシャレで文化的で社交的で自然的で休日も有効活用的な生活はしてないな・・・と、Facebookを見るとなぜか劣等感を感じるのだ。

そして劣等感を感じることにさらに違和感を感じて、いやいや、私の生活は私の生活だし、人に見せていいねされないと満たされないものではないし、と思い直して、なんか疲れてくる。

 

断捨離、と考えた時に一番候補の筆頭にあがるのは部屋にある無駄なものたちではなくFacebookのアカウントだ。

でも捨てられない。

罪があるのは、Facebookにクソみたいなキラキラ生活を垂れ流す一部の承認欲求不満どもと、妙に政治的だったりスピリチュアル的だったり自己啓発的だったりするブログのシェアとそれに付随する偏った価値観を流す価値観の違う人らと、望まない広告、それらを無遠慮にぶつけてくるタイムラインだ。

友達の中にいる、多くの人々を私は好きだし、Facebookだから繋がれたねよかったね、ということもあるし、時折来る友達申請が「え、この人私の事覚えてたんだ」みたいな驚きがあったりと、そこに罪はない。

ないんだよなあ。

対策はもはやタイムラインを見ない、投稿しない、しかない。

 

ただ頭ではわかっている。

承認欲求ダダ漏らしだろうが、何も考えずただひたすらに日々の充実を投稿し、ストレスなくFacebookを楽しんでいる人が一番正しいんだろうと。

違和感だの、気持ち悪いだの、SNS疲れだのと嘆く方が哀れで愚かなんだ。

その人が楽しんでいる日常がたまたまFacebook的(あるいはインスタグラム的)であることは何も悪くなく、その輝きライフをナナメ上からニラニラ眺めるのは不健康。

あと、一番闇が深いのは、私のように違和感や疲れを感じながらも、キラキラリア充生活を投稿し続けることをやめられない人ですかね。

 

どこへ出しても恥ずかしくない、まっとうな日常を自分も送れたらよいのになあという羨望は、きっとどこかにある。

 

もしも私が「苗字かわりました♡」みたいな投稿が出来る日がきたら、少しは存在感が変わってくるのかもしれないね。

そこそこの祝福と少しの羨望

高校時代の友人が結婚をした。

2度目の。

 

彼女の1度目の結婚の時、私は県外にいたし個人的にそこまで仲良くなかったので結婚式には行っていない。

気がつけば、結婚して子どもがいて離婚をしていた。

別の友人を通して交流が復活し、時には合コンに誘われて行ったけれど、彼女はほんとにすごいと思った。

どの合コンでも必ず成果物を持ち帰る。

バツイチ子持ちであることは隠さず、それをモテの武器にさえするし、かと言って子どもほったらかしで遊び歩く(まあそんな時もあっただろうけど)のが目的ではなくて、飲み会がどんだけ盛り上がっていても子どもや面倒をみている親から電話一本あればさっさと帰る。

でも、帰る前にちゃんと「まあまあ」と思った男の連絡先をこっそり交換しているのだ。

 

恋愛体質ってこういうことなんだな、と常々思っていた。

 

結婚式は、相手側も2度目だったからだろうけれど、友人がメインで、最初から二次会みたいな、会費制のちょっとしたお披露目パーティだった。

会場の店を知った時点で期待はしていなかったけれど、飲み放題というだけで料理はツマミしか出てこないようなシケた内容だった。

ただ、どうでもいいビンゴだの余興だのがなかったのは良かったし、終始新郎新婦は店内をうろついて参加者とコミュニケーションができたので、距離感の近い良い雰囲気だったと思う。

出し物といえばせいぜい、参加者から集めた写真をスライドにして流していたぐらい。

 

最後に、本来は彼女の親と留守番の予定だった彼女の娘(小6)が現れた。

花束を贈呈したところで母娘は泣き出し、その2人を旦那が抱きしめた。

すでに旦那は彼女の実家に暮らしていて(彼女は跡継ぎなので婿入りが条件)、彼女の親や娘にも受け入れられていることは知っていたんだけど、旦那が娘の肩を抱き寄せ、娘は躊躇せず彼の腹に顔を埋めて泣いたのを見て、ぐっときた。

 

うまく言えないけれど、「家族ができた瞬間」みたいなのを見た気持ちになった。

もしかしたらそれは、出産の瞬間と同じぐらい、貴重なシーンだったのかもしれない。

私は子どもを産めないと思っているし、家庭を持つことに大きな執着はないけれど、だからこそ血のつながりがない家族の誕生に、心を打たれたのかなあと思っている。

 

正直、「両方2度目なのによく結婚式やるなあ」なんて思わなくもなかった。

でもあの瞬間を見せてもらえたのは本当に良かったし、純粋に祝福する気持ちになれた。

嫉妬とは違う意味で、羨ましいなと思わせてもらえた。

 

なんだかんだ、結婚には愛がよく似合うよね。

 

おめでとう。家族みんなで仲良くね。

私を嫌いなあの人とあの人を嫌いな私

少し前にテレビで誰かが言ってた。

「嫌いは両思いになる」

たしかに。

 

私は幸いにも、おおむね人に好かれる人生を送れている。

自ら声をかけていくタイプではないけれど、見た感じも善良だし(我ながら)、人を不快にさせる言動はあまりしないし、付き合いが良い。

異性にチヤホヤされるというモテ度は低いが、集団の中で愛される側の人間なのだな、と大人になって気が付いた。

 

でも昔から、特定少数の相手からは猛烈に嫌われる。

相手がどれぐらい自分を嫌っているかは確かめたことがないのでよくわからないが、すごく嫌われてるな、と感じる。

同時に、私も相手を嫌いだったりするので、そうなればバトルはしたくないのでただただ離れる。

そうしてお互いが袖を触れ合わせずにやり過ごしてきた。

 

今思っても、私が嫌いになったから嫌われたのか、嫌われているから嫌いになったのか定かではない。

どことなく「合わない」「苦手」という印象が拭い切れないまま、何かのきっかけで足を引っ掛けあい、こじらせてしまったかな。

純粋に相性が悪い相手とうまくやれないタチなんだろう。

 

今も、およそ一名が私を嫌っている。私も彼女が嫌いだ。

今までなら、合わないなら距離を取り、互いに干渉しないでいれば良いだけのことだった。

今回は違った。相手が積極的にこちらへ絡んできていた。そもそも私は相手にあまり好かれてないなと感付いていたし、だから関わらずにいようとしていたのに、あるきっかけで絡まれ始めた。

それも、悪意のある絡まれ方なら対抗措置も取れるのに、上っ面は善意と親しみを持って近づいてくるからタチが悪い。めんどくさい。ほっといてほしい。だから嫌いになった。

 

通っているスポーツジムでのいざこざなのだけど、理由は単純。

彼女がお気に入りのトレーナーに、私がパーソナルトレーニングを担当してもらっているから。

たったそれだけ。私とトレーナーの間に、人が疑う何かがあるわけではない。ただ、担当してもらっているだけ。でもそれが気に入らないんだとか。

よくある話といえばそうなんだろうね。

ジム内を常に我が物顔でうろついて、惰性で運動して、あとは人としゃべりに来ているタイプの人だというのは、私が通い始めて間もなくわかった。

顔は広そうだけどあまり関わるのはよろしくないと思っていたので、時々目が合えば挨拶をする程度のまま何年かやりすごしてきたんだけど。

元々好かれてなさそうだな、と感じたのは、それもそのトレーナーの存在が理由だった(らしい)。

 

彼女が私に絡んでくる少し前から、パーソナルトレーニング中にずいぶん厳しい視線で観察されてるなと思っていた。

そしてある日突然話しかけてきて、トレーナーの悪口を言い出した。

「あいつは下手だから、他のトレーナーにした方がいい」

だいたい同じ意味のことをレパートリー豊富に、しばらくは私がジムへ現れる度にプレゼンテーションをしてきた。

私は、基本的に人当たりが良いので、なんか変だなと思いつつも笑顔で対応素直に話を聞いていた。

ああ、トレーナーを変えさせたいのか、という意図はすぐにわかった。その理由は、「まさかね」と思わなくもなかったけれど、彼女の態度があまりにも親切ごかしだったので、本当にトレーナーは無能なのか?私のために言ってくれてるのか?と危うく信じるところまで持っていかれた。

 

この時はまだ、「嫌い」ではなかったと思う。お互いに。

私がはいはいと素直に話を聞いているし、こいつもうすぐトレーナー変えるな、と相手が思い込むぐらいまでの反応はしていたと思う。

これは八方美人な自分の責任でもあるけれど、そもそもトレーナーを変えるつもりはないし、ジムに巣食うヌシみたいな人ともめるのも面倒で、相手が喜ぶ反応をしてしまっていた。

なにしろ、いつも一人で来てもくもくと運動をして(何人かは言葉を交わす人もいるが)一人で帰るジムタイムにずかずか入り込んで日々説教だ、心も疲れる。

 

私が「もう疲れた、トレーナー変えてもいいかも」と本気で思い始めたが寸止めできたのは、当のトレーナーのおかげだった。

私の異変に気づいて、「誰かに何か言われていないか」と問いただしてくれた。

実はね、と話すとトレーナーはうんざりした顔で、これが初めてではないと話してくれた。だから、彼女がトレーナーに執心していること、そのトレーナーが担当する女性会員を発見すると親切な顔で近づいてトレーナーの悪口をいって変えさせる、という企みをすることを知った。

正直、ばっかじゃねえの、と思った。

彼女は自分の行動により、当のトレーナーに嫌われてしまっているのだから。

通常、トレーナー側にとっては私も彼女も会員としては同じだ。だから、きっと言ってはいけないはずなんだけど、よほど腹にすえかねてたのか、「もううんざり」「やめさせたい」と言うほどだったので、まあ大変だったんだろうね。

 

その後トレーナーはその人に厳重注意をしたらしく、ぴたっと彼女からのつきまといはやんだ。

しかしその時から私は嫌われた。

話しかけてはこないが、しばらくは行動を監視されていた。トレーナーが絶対に目が届かないところでは何度か話しかけられて、懲りずにプレゼンテーションをされた。

でも、嫌われているのはよくわかる。

その時のパーソナルトレーニングは期間限定でやっていたので、やがて終了した。彼女はある時、私から終了の確認をとった。

それから、ぱったりと声をかけてこない。前なら、ジムエリアの端から端でも追いかけてきたのに、今は目の前ですれ違っても挨拶さえしてこない。

トレーニングは終わったから、邪魔をする必要がなくなった。

なら、嫌いな女に声をかける必要は皆無。

そういうことなんだろうね。わかります。

 

だけど、今もまだねちっこい監視の目は感じてる。

トレーナーと二人でしゃべっているとき、だいたい私の視界に届く範囲にいる。

 

トレーナーとは、別のメニューでトレーニングを再開する予定なのだけど、彼女がそれを知ったらまたどうなるのか、うんざりとおもしろがるのと半々。

 

単純に、本当にトレーナーを変えてしまえばいいのかもしれない。

私もいまだに、少なからず彼女の存在をストレスにしているし。

でも嫌いな人を喜ばせる道理はないので、トレーナーを変えるつもりはない。トレーナー自身に問題があって変えたいと思えばまた別だけど。

 

トレーナーに打ち明けた時「こうなるかもと思っていた、最初に言わなくてすみません」と言われたのだけが、トレーナーに対してオイオイ、と思っている。

そもそも、私は以前からそのトレーナーにアドバイスをもらったりしていたけれど、本当は別の専任スタッフに頼もうかと思っていたトレーニングだったから。トレーナー自ら、自分でも担当できるよと言ってきたので、まあ勝手知ったる相手のほうがやりやすいか、と頼むことにした。

妨害が予測されるのなら、自ら営業をかけるべきではないのだ。

そりゃあまあ、自分の収入につながるから顧客がほしいのはわかるんだけども。微々たる収入よりも、ゴタゴタが起きてその処理をしたり、万一私が心の弱い人間で「こんなジムやだ」とやめたらそのほうが損益につながると思うんだけどなあ。

 

結論として、スポーツジムで人と深く関わるのはやめるべき、ですね。

あんなみっともないババアにはなりたくない。

できなくなる人生と、できるようになる人生

私は今36歳で、もうアラフォーといってしかるべき年齢だ。

ただ、幸いなことに環境や仕事や元々の体質のおかげで、実年齢よりはだいぶ若くみえる。

 

まあ「若く見える」と言い張る時点で若くないんですがね。

 

精神年齢もここ10年まるで成長をみせないので、自分が30代も後半なのだということがいまいち納得がいかない。

私の了解を得ぬまま、勝手に年を取るんじゃない、と言いたい。

誰に言いたいんだろう。時間を司る神的なものにかな。

 

そもそも小学生ぐらいから「大人になりたくない」と思っていたので、そういう人間はあまり老け込まないのじゃないかなと思う。

とはいえ肉体的な経年劣化は好むと好まざるとにかかわらず出てきてしまう。

それを食い止めるためとか、ちょっと体重増えてきちゃったなとか、その他色々な理由もあって数年前からスポーツジムに通いだした。

 

以前、別の土地に住んでいた頃にも通っていたのだけど、こちらはあまり長続きしないで半年ぐらいでやめてしまったかな。

ぐっさんによく似たスタッフだけが、いつも気さくに声をかけてくれていたんだけど、その他誰ともなじまないまま飽きた。

今のジムは、色々な条件がうまく合致して、やめるどころか年々ハードモードになっている。

 

おかげで、子供の頃からずっと感じていた運動不足、運動神経ゼロ感がなくなって、人生の中で一番運動能力が高い状態なのが今だ。

持久力、瞬発力などの基礎体力がアップしたことはもちろんだし、跳べる・走れる・泳げる・重いものが持てる、と以前できなかったことができるようになっている。

脳内の快楽物質がとまらない。

 

どこかで読んだのだけど、同じ年齢で老けてる人と若々しい人、その差がでるひとつの原因。

「若い頃よりできなくなったこと」が多いか、

「若い頃よりできるようになったこと」が多いか、

にあるとか、ないとか。

 

私は今、できなくなったことよりできるようになったことの方が圧倒的に多い。

できなくなったのは、12時間ぶっつづけでお酒を飲むとか、徹夜で遊ぶとか、それぐらいだしそれはもうやらないでよい。

 

大人になりたくなかった人間は、子供の頃できなかったことを実現することで、今に納得しているんだろう。

それは大人の力、お金でどうにかできるものでは満たしきれないと思う。

子どもの頃と同じような努力で得てこそ、「若い頃よりできるようになった」といえる。

 

私は3度ほど死んでもおかしくない経験があり、それは普段の生活になんの影響も与えていないけど、私の人生観とかには大きな影響を与えていると思う。

私は、長生きしたいし死にたくないし大事な人ほどその死を見届けたい。

同時に、ほぼ毎日のようにいつ死ぬかわからないしな、という前提でものごとを決めたりしている。

「いつか」「そのうち」という言葉があまり好きじゃない。

やりたいことがあれば、すぐにでもやりたい。

やれないなら、一刻も早くやれる状態にしたい。

慌てるなと言われても無理だ、だって来週生きてる保証がどこにある?

 

だから思い立ったが吉日で、よし!と思ったら即スポーツジムに入会したし、さあ!と思って実家をでて一人暮らしをしたし、今だ!と思って結婚相談所に登録してみたこともある。

小さいことなら、シルバーアクセサリーやりたいなと思ってすぐスクールに通いだしたとか、こういう商売はどうだろと思ってネットショップ始めたりだとか。

で、多分引き上げるのも早い。そろそろか、と思ったらあっさり手放す。

でないと、次やることがたまっているからね。

 

なにかができる、というのは、結局そのなにかを「やる」ということだ。

ヒマを見つけては足繁くジムに通い、それなりに痩せて筋肉がつきなぜかブラのカップはアップし、目が大きくなり肌はつやつやして力持ちになったし足も速くなったし挙句の果てにカナヅチの日本代表がクロールなら結構泳げるようにもなった。

周囲の人が言う。

「よくそんなにできるね」

できるのはなぜか、というとよくわからない。

楽しいからとしか言えないし、楽しいは向こうからやってくるものじゃなくて自分で楽しくしていくものだから。

やりたいからやるし、やるなら楽しくしたいし、ジム通いは出来てるんじゃなくやってるんだし。

 

敢えていうなら、美しくなりたいからやっているんじゃなくて、最終的に寝たきり老人にならないためにしているからだろうか。

目標は遠いのだ。ちょっとスマートになったからってやめられない。

これぐらいの年齢にもなると、「一生結婚できない人生」というのも現実味のある選択肢(それも否応なく選ばざるをえない)となってくるので、ひとりで老後を過ごさないとならなくなったなら、やはり最後にものを言うのは体力。

動けて歩けてものが持てることは、お金があることと同じかそれ以上に老後に必要なスキルだ。

生きがいだとかたいそうなものじゃなく、普通に過不足なく生活を送りたい。

だから私は体力のあるうちに体力をつける。

できなかったことができるようになった!といえるうちにできることを増やす。

そのうち、落ち着いたら、ゆとりができたら、なんていったら体力つくまえに死んでしまう。

 

まあ筋肉の話や結婚相談所の話はまた別の機会に。

正しい恋の決着点について

私はやさしい男によくフラれる。

 

今より何年か前にも、私は好きな人がいた。

その人に出会ったのはもう8年ぐらいは前なのかな。

合コンで知り合って、なんだかいいなあと思った。

だけど連絡先を交換したぐらいで、その後すぐに会うことはなかった。

1年か2年かして、一度連絡がきて飲みに行った。

そのさらに1年か2年して、ひょんなことで連絡が復活して、また飲みに行った。

その時に初めて2人で会ったけれど、いいなあって改めて思った。

 

その間には、2つほど恋愛を経ていたけど、どこかでずっとひっかかっていた人だった。

少しがんばってみようかと、私にしては積極的に誘ったりして、結構頻繁に会うこと半年。夏にはドライブまでした。

互いに30代も半ばというのに、だからこそなのか、男女関係は発展せず。

相手が明らかに脈なしなら諦めもつくのだけど、妙に好意的でもあったりで判断がつかない。「俺は受け身だから」と何度も言われた。

正直、なんだそりゃ、と思ったりもした。

もやもやしながら、いい加減答えを出さないとなと考えて「この日に」と決めて、誘った。

だけど、会う前日に「友だちも呼びたい」と言われて、私の心は一気に萎えた。

「お好きにどうぞ」

その日を最後に、私は彼を誘うのをやめた。

 

それでも、彼のことがどうでもいいとなったわけじゃなくて、たまに無性に会いたくなる。私たちの間には何もないけれど、時々頭をなでてもらったり手をつないでくれる、それがついつい恋しくなる。

それで連絡をして、ただ酒を飲み、他愛のない話をして、夜中に街を歩き回り、少し親密な距離感を味わって、さようならする。

また半年とか1年とか会わない。

 

これを私はいつまで続けるんだ、と今年になっていよいよ反省した。

本当に好きな人はもう別にできてしまったけど、私はどこかで彼の存在を滑り止めにしている。

うら寂しい時、逃げ道にしている。

だからダメなんだ。

 

本来なら、もう連絡をしないで会わなければいいのだけど、そこは私も弱いので「これが最後」ともう一度会う手はずを整えた。

 

いつも通り会って、下品でろくでもない話をして、酒を飲み、酔っ払って街を歩き、ベンチで休み、コンビニに寄り、彼の車についていった。

何かを企んでいたわけじゃないけど、もう少しだけ一緒にいたいなと思って、今までで一番甘えてしまった。

 

好きな人のことを、どうしようもなく好きなんだと気づいた時に、外側から既婚者であり子持ちであることを知らされた後だったし、それ以外にも気が滅入ることが多くて、少し肩を借りたかった。

結局借りたのは肩だけにとどまらず、今まで決して超えなかった一線を超えてしまった。

 

なんでそんなことを言ったのか、私もわからない。

言わなかったら、友人同士が一晩火遊びをしてみただけ、という形でお互いに「あはは、なんかごめんね」で済んだのに。

 

「ずっと好きだったんだよ」

 

今思い出しても自分をぶん殴りたくなる。

言った瞬間、まずい、言い方間違えた、と思った。

「今は別にそうでもないんだけど」と付け加えるのを忘れた。

とはいえ、行為の最中にそんな補足説明はそれこそ情緒がない。

私は情緒を大事にすることにした。

 

翌朝、ほんのりと気まずい気持ちのまま、別れた。

私はこれ以上連絡する気がなくて、このままさよならでもいいかな、と思った。

なんというか、最後に味見できたしまあいいか、ぐらいの気持ちだった。

告白しちゃった!みたいな焦りとか不安とか高揚はなく、そのあたりはやっぱりもう、私にとって彼は終わってしまった恋なのだなあと感慨深い。

 

でもその夜に、彼からLINEがきた。「今から会えない?」

え、やばい、どうしよう。

とりあえず、会った。

そしたら、フラれた。

 

「好きって言ってもらえて、本当に嬉しかった。でも、今、他に気になる子がいてさ・・・ごめん」

 

1日かけて、私とその子とどちらを選ぶか、猛烈に悩んでくれたらしい。

その子とやらがいなければ、付き合ってくれていたっぽかった。

昨晩の甘えと告白をあと2年ぐらい早くできてれば、今頃婚姻届でも出してたのだろうか。

いや、いずれにしても、私は彼とは付き合えない運命だった気がする。

 

全然へっちゃらだよ、という顔をするのも違う気がするし、悲しむにもショックが少なくて、えーと、うん。

「あなたのことはずっと好きだったんだけど、会わない間に好きな人がほかにもできてしまったから、大丈夫」

と、よくわからない返事をした。

そして、今回で会うのを最後にしようと思ってたとも伝えた。

だから安心してね、もう追いかけたりしないよ。

 

彼が会って話したいと言ってきたとき、私は何かを期待したんだろうか。

「付き合おう」と言われたら、付き合ったのかな。よくわからない。

半々、というのが正直なところだったし、フラれて「やっぱりな」と思うと同時に少しホッとした。

すぐに答えを出そうとするのは、やさしい男性によくあることだ。

「きちんと答えを出すことが誠意」とか思ってる男だ。

それは実のところ、「自分の厄介ごとを手早く片付けて楽になりたい」だけなんだよ、女の人はそこまで見えてるよ。

 

途中まで送ってくれようとしたのを辞退して、じゃ、さよなら。と手を振って、歩いた。

彼がいつまでも私を眺めていたのか、すぐに踵を返したのかは知らない。

だけど、私はこういう時は振り返らない。

 

安心してね、私はつよいの。

男にフラれたときは、ぜったいにすがらないって決めてるの。

そうやって、恋には決着をつけるの。

そういうアピールをする。 

 

最後にやさしい人でいてくれてありがとう。

ちゃんと会って話したかった、とつまらない綺麗事を言ってくれたおかげで、私はあなたに幻滅することができました。

未練なく、堂々とかっこよく立ち去ることができました。

ペーパーナイフが使えない女

封筒を開けるのがへただ。

いつも、とっさにハサミが見つけられなくて、ノリではりついたところを指で摘んではがす。

うまくはがれずに、紙の上の層だけが途中までやぶける。

わずかに開いた穴があればそこに指を突っ込んで、ぐいぐいと破いていく。

破れ目は当然ぐちゃぐちゃになる。

時には調子よくスーッと敗れるのだが、そういう時は高確率で紙の鋭利さに皮膚が負けて、怪我をする。

幸運にもハサミをみつけた場合はスムーズかつ綺麗に切り開くことができるが、きちんと光に透かして中の紙の位置を確認しないと、いらぬものまで一緒に切り取る羽目になる。

中には封筒の天地めいっぱいに紙が詰め込まれている場合もある。

 

知り合いの女性で、郵便物を美しく開封する人がいる。

郵便物を手にすると、流れるような動作でペーパーナイフを引き出しから取り出し、机の上にしかるべき角度で封筒を置き、ノリと封筒との間にわずかに覗く隙間にナイフを差し込み、音も立てずに開封するのだ。

なんと、文化的で美しく、封筒への敬意ある所作だろうか。

自分の教養を微塵も感じられない普段の行いが恥ずかしいと思った。

 

ある日、鈍く銀色に光るペーパーナイフを文房具売場で見つけた。

悩むことなくそれを買った。

帰宅して、ペーパーナイフをパッケージから取り出し(もちろんパッケージは強引にやぶいて、台紙とプラを止めたステープラーの針もどこかに跳ねてしまった。数日後に裸足で踏みつけることになる)、ペンスタンドの新たな仲間に加える。

フフ、と笑った。

開封するべき郵便物はなかったが、ペンスタンドからもう一度取り出して手にした。

紙を切り開くためだけにある、人を殺せない刃がまろやかでやさしい。

これを持っているだけで、かの女性のように教養がありスマートであり仕事ができる人間に慣れた気がした。

 

はやく、なにか郵便物が届かないかしら。

 

人間、定まった住所を持ち、まともに税金や公共料金を払い、それなりに働いていれば、日々なんらかの郵便物は届く。

間もなく私の元へも郵便物が届いた。クレジットカードの利用明細兼請求書だ。

たいして喜ばしいものではないが、さあキミはこのペーパーナイフで美しく切り裂かれる最初の犠牲者だ。

ナイフの刃をべろりとなめ(るような気持ちになり)、封筒を裏返して机に置いた。

刃を差し込むべき封筒の封の隙間をさがす。あった。少し狭いが、まあ入るだろう。

先端を水平に差し込み、ぐ、と力を込めてナナメ左上に向かってナイフをスライドさせた。

 

ぐしゃ。

 

思った動きにはならず、ナイフは早々に封筒の折れ目に引っかかり、醜いシワを寄せながら紙は抵抗をした。

む、ともう一度力を入れなおしてスライドさせるが、ナイフはその本領を発揮させることなくがたがたと左右にぶれながら、小汚く封を切り開いていった。

 

最終的に、「指よりは、まあマシ?」ぐらいの仕上がりで、クレジットカードの利用明細兼請求書は姿をあらわした。

まだ刃が慣れてないからか、自分のやりかたがまずいのか。

まあ、このペーパーナイフも私も、開封に関してはちょっとした新人だ。これから仕事をちゃんと覚えていこうな。

そんな寛大な気持ちで、私はペーパーナイフをペンスタンドに戻した。

 

以後、ペーパーナイフ文字通りペーパードライバーさながらナイフとしての成長を見せないまま、ペンスタンドで鈍く輝いている。

そして私は今日も、指で雑に郵便物を開封し、その度に「あ」といってペンスタンドにある新人君を一瞥するのだ。

 

いつまでも封筒は綺麗に開かない。