Picoti-Picota

地面に、散らばるエサ、つつけ、つつけ、ツンツンと

私は子どもが産めない

そのまま、その通りの話をします。

 

それを匂わす事ぐらいは言ったことがあるけれど、はっきりと明言したことはない。

だけど、これはもう決定事項といえるだろうと私はあきらめている、と思う。

 

あるひとつのことが原因ではなく、自分の場合複合的な理由が合わさった結果、もう子どもを望むのは無理があると結論づけている。

悲哀をあまり感じていないのが、きっと女性として生まれたわりには救いなんだろう。

むしろ、周囲に悲哀を感じさせないために言わないでいる部分さえある。

慰めもいらない、気遣いもいらない。

 

私が子どもを産めない理由

1.病気である

私は、ざっくりいうと、小児がんC型肝炎と心臓病を患ってきた。

現在進行形なのは心臓病だけど、これがよくない。

私の心臓を人並みに動かすための薬が、妊娠NGらしい。

もしも結婚したなら、その薬をやめて数ヶ月様子をみる、身体に異常が出れば中止。でなければ計画的に妊娠へ向けて病院と連携してがんばる、という流れらしい。

2.高齢である

36歳だ。酉年だ。ついでに独身だ。

今から結婚して、薬をやめて、様子見て、出来るかわからない子作りをして・・・と悠長なことを言ってたら、初老になる。

3.生理不順である

4年ほど前から、生理不順になった。もともとPMSも生理痛もあまり苦しまず、経血量も少ないがゆえに楽な生理人生を歩んできたけれど、全体的にこなくなった。

年に2.3回あるかないか、病院にも言ったけれどホルモンも正常だし、原因はわからない。

私的には、心因性のものだろうと判断しているけれど。

4.体が小さい

すごく、体が小さい。病的に小さいが、これも原因は不明だった。どうせ小児がんのせいだ。

昔調べてもらったけれど骨の形成や成長に異常もなく、そのまま捨て置かれた。お陰で若々しく見えるので、まあいいやと思ってる。高いところのものが取れないぐらいしか、不便がない。服のサイズが合わないことについては解決済み。

で、この体に人ひとりを宿したら大変そうだなあ、と思っている。

5.そこまで執着がない

「子どもを産みたい」と強く思ったことがない。

適齢期に、周囲の友人たちが子どもを産んでも、何も思わなかった。

子どもが嫌いかというとそうでもない。子どもは等しく幸せに守られ成長するべき存在だし、もしも私が富豪なら恵まれない境遇の子どもたちを養ってもいいと思う。

ただ、個人的にそこまで興味がない。だから結婚も焦らなかったし、焦らなかったおかげで今に至っている。

6.生きていたい

よく、母体か子どもどちらかを諦めないといけない、というシーンがドラマにあったりする。

本人にとっても、さらに身内にとっては究極の選択だ。

私は心臓が悪い上に、心臓の薬をやめないと妊娠できないという条件があるので、そのドラマが実現する可能性が大きいと予想している。

だけど、私は生きたい。やりたいことも経験したいこともたくさんある。何もしなくても生きたい。

だから子どもはいいや、と思えてしまう。

弁解するならば、子どものために命を張ることは、できます。

多分私は、土壇場になったらあっさりと子どもを生かすことを選べると思う。

その選択をした時に、「ああ私らしい振る舞いができたな」と満足するから。

それが怖いので、そもそも子どもなど作らなければいいと思ってしまう。

 

言い訳でも、気を紛らわしているでもなく、出産育児以外にやることはいくらでもある。

また、出産ができなくても育児はできる(携われる)。

不妊治療を否定するわけではないけれど、もしも血のつながりにこだわりさえなければ、不妊治療に使うお金で育てるべき命は、たくさんある。

ペットに愛をそそぐ代わりに、血の繋がらない人間の子どもに愛をそそぐ選択肢がある。

 

子どもを作れない女性は世に多くいると思います。

でも同じだね、って共感しあえないんじゃないかな。

苦しみをわかってあげることはできない。

また私は、苦しんでいないんじゃないくて、苦しみの消化の仕方をわかっているだけ。

だから、私は自分が子どもを産めないことに大きな落胆は感じない。

そりゃあもちろん、1度か2度、しんどい人生だなと思ったこともあるけれどね。

人生のパターンにこれだけバリエーションを持てるのは人間だからだし、と思えば、出産はできる人たちががんばってくれたらいい。

それ以外の、世界を動かす役目を我々が担うよ。と。

 

だけど、世間みんながそう思うわけじゃない。

「私は子どもが産めない」と聞いたとき、

ある人は「かわいそうに」と言うでしょう。

ある人は「まだわかんないよ、あきらめないで」と言うでしょう。

ある人は我が子のかわいさを、私へ無邪気に伝えることを躊躇するかもしれない。

ある人はそんな嫁うちに来たら困ると拒否するかもしれない。

 

だから言わない。

私は、子どもが、産めない。

私は、子どもを、産まない。

 

だって、私は生きていたいからね。

正しくない恋の着地点とは

場合によっては醜悪に感じられるだろう話。

 

好きな人がいる。

その人と話を10分もすれば、3日は幸せでいられるから多分好きなんだと思う。

 

その人とは、叶うならもっと親しくなりたいし、恋をしたいし、その先も考えるような関係になりたい。

だけどまあ、無理かな。と思っている。

 

その人も私に対してある程度好意的でいてくれるのは、私に対する言動からわかるけれど。

それが彼個人の気持ちの現れなのか、仕事だからなのか、わからない。

私は彼のクライアントだから。

ハードルがこれだけだったら、もう少し諦め悪く足掻けるだろう。

ハードルその2、10歳年下。

ハードルその3、既婚者(+子)。

 

世の中にはこれでもなお、略奪せんとがんばれる女性もいるだろう。

私にはその熱量がない。

出会うのが遅かったことを、私が生まれるのが早すぎたことを、少し悔やんで現状に甘んじることを選ぶ。

 

私は彼のクライアントだけど、ビジネスの現場においては彼が上だ。

先生と生徒という感じね。

だから、彼はどこか私に対して対等であり導こうという気持ちがあるし、私は彼に従おうという気持ちがある。

これが精神的に年齢差を埋めてしまったのがいけなかったんだろうな。

 

あとは好きになるのに理由はいらない。一目惚れはしていない。

ただ、長い日々重ねたこの人いいなあ、の積み重ねでしかない。

 

妻子から彼を奪うということはつまりどういうこのなのか、と考えると、それは結局セックスをする関係になるということだ。

セックスをして2人の距離が0センチになって、燃えて焦がれてどこかでしくじって何かがこじれて面倒なことになって彼は家庭に戻り私は一人取り残され気まずくなればビジネス関係も終了だ。

 

私が望むのはそれなのか?と自問自答する。

そのためにあの手この手で彼の心と体を一時的にものにすることの意義はなんなんだ?

そこにある幸せとか愛とかって、なんなんだ?

 

だったら、一定の間隔で彼に会い、どうってことない会話を交わして、彼が笑い、私も笑い、今日も話せて嬉しかったなって思う。よきビジネスパートナーとして過ごす。

願わくば、彼も私と話をしてそれなりに楽しかったな、と思ってくれたらなおいい。

その関係が漫然と続き、私はいつか他の人に出会って、彼への気持ちを日に日に薄れさせていく。

いつか、10歳も年下の若者に一喜一憂してた時もあったな、なんて懐かしく思う。

 

私の心はその方がずっと幸せな気がする。

 

偶然だけれど、先日、彼の妻子を見た。

その日私は彼の職場に行ってたのだけど、彼の車が駐車場にないことに気づいていた。

だけど彼は職場にいた。

私が帰る時、私の車の後ろに駐車しようとする車があった。彼の車だった。

あれ?と思ってバックミラーをみると、運転席には女性がいた。そして後部座席から顔をのぞかせているのは、2歳ぐらいの女の子だった。

「子どもが生まれたらしい」と人づてに最近聞いたけれど、もうこんなに大きかったんだ、と驚いた。

きっと、妻が車を使う用事があって、代わりに彼を職場へ送り迎えする手はずだったんだろう。

当然、妻は私のことなど知らない。

 

見てはいけないものを見た気がしたし、体中の血が一瞬止まってしまったような気がした。

その後、これから三人で家路に着くんだ。もしかしたら途中でスーパーなんか寄って買い物とかしたりするのかもしれない。

そう考えると、泣きたくなった。

不倫をしているわけでもないのに、自分が惨めになった。

何より吐き気がしたのは、自分自身の思考にだ。

妻の顔をみた瞬間思ったのは、「なんだ、私よりブスじゃん」。

認めろよ、負けを。

あんたは選ばれていない、その時点であんたは負けてるんだよ。ブスかどうかじゃないんだよ。

 

ああ私には無理だ、と同時に悟った。

仮に二人で逢瀬をして、彼が帰っていく場所にあの二人が待っている。

円満な家庭だろうが、冷えきった夫婦関係だろうが、関係ない。

彼の帰る場所がそこにある。その事実に、私は耐えられないと思った。

私は彼と恋などしたくないと思った。

私の恋に、彼以外の人間の存在はいらない。

 

私の恋心はただ宙ぶらりんでフワフワと、答えを求めず、軟着陸できるまで惰性で落ちていけばいい。

 

後日、彼に会った時も私は変わらず笑って話をした。

「こないだ、奥さんと子どもみちゃったよ」

そんなことはもちろん言わない。

その代わり、彼に心のなかで問い続ける。

 

ねえ、どうして結婚してること黙ってるの?

いつまで黙ってるつもりなの?

あなたが隠してさえいなければ、好きにならずにすんだのに。

 

私の正しくない恋の着地点は、彼の顔面にお見舞いするドロップキックかもしれないね。

ことだま

昔、すごくつまらない冗談を友達に言ったことがあった。

 

「私、長く生きられないんだよね」

 

理由はない。あるとしたら、その友人に対してのちょっとした怒り、苛立ちだったのかもしれない。

彼女は、学生時代の友人だった。学科のジャンル的に女子が極めて少ないクラスだったので、4〜5人の仲間のうちのひとりとしてそれなりにうまくやってきた。

けれど、私は彼女がどうにも好きになれなかった。

お金が好きで、ずる賢くて、自分を守る嘘を平気でつくし、バレても悪びれない。いつも恋をしていて、成就のためには誰だって利用する。だけど友人には優しく、生活費をキツいアルバイトでせっせと稼ぐ、どこか憎めない人だった。

それをわかってなお、私が一番イヤだったのは、いつも「具合悪い」と言っていたことだった。

いるじゃないですか、常に具合が悪い不調女子。

根本的解決方法はあるけれどそれはやらず、ただひたすら自分の不調を周囲に撒き散らす人。

私はそれが気に入らなかった。

 

自分が具合悪い、ということはすなわち命の危険とほぼイコールであること。

それが私の幼い頃からの常識だった。

具合が悪くなると、親が心配する。学校を早退する。病院へ行く。場合によっては入院する。最悪死んでしまう。

だから私は、具合悪いという言葉を発するのがイヤで、自分のどこが痛いというのもイヤだった。たとえ生理痛だろうが涼しい顔をして体育に出る。

 

だから友人が毎日のように眠い、具合悪い、調子悪い、と連呼して周囲に気を使わせている身勝手さが我慢ならない時があったのだと思う。

ねえ、気軽に「具合悪い」って言えることがどれだけ幸せなことかわかってる?

 

私はそう言いたかったのかもしれない。

今思えば、友人に感じた身勝手さは私も同じように振る舞えたらいいのに、という嫉妬があったのかもしれない。

そんな彼女に、ある時言ってしまった。

「私、長く生きられないんだよね」

 

「え?」

と言った時の彼女の顔に、私は少し驚いた。

「ほんとうに?」

顔がこわばり、目が見開かれ、ショックを受けているのがわかった。

言ったことをすぐに後悔した。

「ごめん、うそ、冗談。死なない」

すぐに発言を撤回して、あやまった。

「なあんだ、よかった。びっくりした」

彼女はホッとした顔をした。ああそうだ、この人は、やさしい子だった。

息をするように嘘をついて人を利用するけれど、本人はそれを自覚しない、やさしい人なのだ。

だから友達が死んじゃう、と聞かされれば本気で驚いてしまう。

自分は馬鹿だな、と思った。

 

その会話を近くで聞いていた別の友人が、少したってから私に言った。

「たちの悪い冗談、言っちゃだめだよ」

正しい言葉だったので、言い返せない。

だけど、だけど、と思った。

 

ほんとうなのに。

 

少なくとも、可能性としては、ほんとうなのにな。

重大な疾患を持っているようにはみえないので仕方ないと思う。

でも私は、二度ばかり三途の川を覗きこんできたし、これからもそういうことがあるだろう。

それを、たしなめてきた友人に言い訳するほどの馬鹿ではなかったけれど、なんだか悔しかった。

自分で招いた結果とわかっているけど、私だって弱い部分を抱えた泥臭い人間だ。

健康な人間が羨ましい、妬ましい。

時には悲劇のヒロインにもなってみたい。

そういう愚かな面を、人に見せてはいけないのだ、と抑えつけられた気がしてしまった。

正論をいう人は、時に残酷だ。

 

とまあ、それがまだ20歳になるやならずやの頃の話。

 

25歳で私は別の病気に倒れ「30歳まで生きられないかもしれない」と病院で言われた。

学生の頃のくだらない冗談を思い出した。

ああ、自分で言うもんじゃないよな、と思った。

言霊はある、と私は思う。

そして言霊の効力は、いつ発動するかわからない。

その言霊の呪いを断ち切るには、さらに強い言霊を用いるしかない。

 

「死ぬ気がしない」

 

言い続けて、私は今年36歳になった。

別のものを犠牲にして、私は命を得ている。

ピコティ・ピコタの使い方

Picoti Picotaは「ピコティ・ピコタ」と読むらしい。

ブログのネーミングを考えている時に、ニワトリにまつわる単語がないだろうかと探していて見つけた。フランス語のようだ。

トリがエサをつつく様子の擬音語のようなもの、じゃないかと思います。

 

何かが書きたくて急にはてブロを始めてしまったものの、では果たしてどんなコンセプトで書くべきなのか、ふわっとしてて定まらない。

 

ピコティ・ピコタもどういう意味なのかいつ使えばいいのかよくわからない。

まあちょうどいいかな、と思って命名してみた次第です。

 

私はSNSを使い分けている。

Facebookは、自分の写真も載せない、普段自分が何をしているかも見せない、でも時々食べ物の写真や通勤途中で見かけた動物なんかを載せて「まあ、一応生きてますよ」という感じだ。

そこに私の心や脳みそが何を思い、感じているかは見せない。

仲良し度の微妙な不特定小数の「知り合い」に見せるべき私、というのを探してつまみ出せば、その程度しか出てこないからです。

 

Twitterは、幾通りかの使い方をしてきたけれど、結局のところごく少数の、古くから私を知っていて、私のオンラインとオフラインの入り混じった人間性をある程度わかった人にのみ、ごく個人的なことをつぶやいている。

ここは少し居心地がいい。

 

あとは、やってない。やってたけどすぐ飽きた。長くやっていたけど潮時を感じてやめた。

特にインスタグラムは、写真を掲載するためのツール、というのが全然なじめなかった。

 

結局私はただずらずらとテキストを打つことが好きで、そこにはくだらないことも、隣で聞いていたら気が滅入るようなことも、人間性を疑われるような愚かなことも、俗っぽいことも、愛についても、重いの軽いの合わせて書きたい。

 

いつぞや数年間続けていたブログはそこそこうまくいっていたと思う。

時々起こるずっしりとした重い気分もそこに吐き出したし、恋人できちゃった♡みたいな浮かれ話も、別れた報告も、体のことも仕事のことも、深く考えずに書けた。

だけど、その当時の恋人と別れたせいで、彼との出来事をつづった少なくない数の記事に嫌気がさして、削除してしまった。

別れたことに後悔はなかったが、ブログに嫌悪感を感じたことはあいつのせいだ、とむかついている。

 

ブログって不思議なものだね。

これというコンセプトやテーマ、あるいはアフィリエイトで稼ぐぞ、みたいな目標があればまだしも、金にもならないただ自分の思考を書くだけの人も、いまだに少なく無いと思う。

それこそチラシの裏に書いとけよ、というもの、知り合いには知られたくないけど誰かに聞いてほしいこと、その行為に意味を見出せない文字打ち。

私はなぜだかそれが好きで、しばらくやめていてもまたこうして戻ってきてしまう。

 

声にならなかった、自分の足元に落ちているたくさんの瑣末な思いを、ひとつひとつ拾い集める。

10本の指はキーボードの上に踊り、それらをただ漫然と、画面に叩きだしていく。

ピコティ・ピコタ、と音を立てて。